益子大陶器市の歩き方 > 益子町と益子焼の基礎知識 > 益子焼の基礎知識
益子大陶器市に行く前に、「益子焼って一体どういうモノなの?」といった辺りを知っておくと、陶器市がより愉しいものになると思います。
実際に陶器市を見ると分かりますが、一口に益子焼きと言っても実に様々なデザインのものがあります。
現在、益子には400を越える窯があり、その大半は益子町以外から移り住んできた作家さんです。ある方は伝統を踏まえた上の発展を、ある方は新しいデザイン感覚でと、様々な作品が焼かれており、益子焼は日々確実に変化しています。
その辺りを歴史的背景から見ていきたいと思います。
益子で益子焼が焼かれるようになったのは、それほど昔ではありません。
その始まりは、江戸時代の終わり(19世紀の中頃)、茨城県笠間で修行をした大塚啓三郎が益子に窯を築いたのが始まりといわれています。
つまり、始まりに於いては笠間焼の影響を強く受けています。
益子焼は創業当初から黒羽藩の殖産事業の一つとして藩の援助を受けて、主に日用品としての陶器を製造しており、こうして作られてものは江戸の台所でも多く使われていました。
それまで日用品であった益子焼に転機が訪れたのは、大正13年のことです。
民芸運動の推進者であり、のちに人間国宝となった濱田庄司(はまだしょうじ)がこの町に移り住んで「用の美」を追求した作品を作り、佐久間藤太郎をはじめ、幾人かの陶工が強い影響を受け、濱田らが唱える「民芸運動」の理念に基づいた民芸品としての益子焼の製造に着手しました。
これが、今の民芸陶器として名高い益子焼の基本となっています。
「用の美」とは、民衆の日常生活の中に厳然とある生きている美の世界のことです。
現在の益子焼は、消費者のニーズに従って日々変化しており、薄手・軽量・デザイン性重視の傾向にあります。一方では、それによって益子焼本来の「益子焼らしさ」が失われ、「益子焼=益子で焼かれた焼き物」という状況に陥っているのも事実です。
このことが良いことなのか悪いことなのかは分かりません。
が、濱田庄司が唱えた「用の美」の思想は、間違いなくそれぞれの作品の中に活きていて、益子焼が日常生活を楽しむ器であることは間違いありません。
益子焼の素晴らしさは土にあるといわれます。
益子の土は、珪酸分が多く鉄分を含み、可塑性に富み、耐火性も大きいのが特徴です。益子焼では、この粘土を他の成分を加えずに使うため製品自体は厚手になるものの、それがかえって手になじむ益子焼ならではの魅力を生み出しています。
また、益子焼の土の味わいを引き立てているのが釉薬です。
益子の土は釉薬ののりが非常によいという特徴があり、様々な技法によって益子焼独特の味わいが生み出されています。